旦那さんは娘が2歳を迎えた直後に出て行きました。
娘と旦那はそれ以降ほとんど会っていません。
それについて私が「申し訳ない」と言う感情を持つ必要があると気付いたのは、
つい最近でした。
傲慢ですが、
娘には私だけがいればいいだろう、
とどこかで思っていたのですね。
娘は極度のママっこだし、
ママはわき目もふらずに娘だけを見て来ました。
今も世間的には仲良し親子です^^
娘が何かを頑張るときはいつだってママが傍にいました。
自転車の補助輪を外してあげたのもママだし、
小さい頃は根性で肩車だってしてあげていました。
ママが大好きな娘と、娘が大好きなママ。
そんな環境で一心不乱にお互いを見つめ続けている親子に、
何か不満が生じるとでも?
そんな風に思う部分が少なからずあったのだと思います。
それが。
最近、
もしかしたらそうじゃないかもしれないな、
と思うようになりました。
世の中にはパパとママ、
「親」が「二人」いることで成り立つものの多さに気付いたのです。
例えばママがガミガミ怒っている時は、
パパは輪の外に居て、
実質的に子供の逃げ場になることがあるでしょう。
「そんなに怒らなくてもいいじゃんね」
と言い合える存在が必要な時もあるのだと思うのです。
パパが怒っている時はその逆ですね。
万が一そんな時に会社や外出で片方の親が不在だとしても、
怒っていない方の親に心意的に想いを寄せて、
「いいもん、きっとパパ(ママ)ならわかってくれるもん」
とプイッと出来る環境が整っている。
ママが怒っていればパパが味方だし、
パパが怒っていればママが救いになる。
片親であると言う事は、
その感情の退路を断つという事でもあるんだなぁと、
ふと思ったのです。
勿論、
味方になってくれる対象は何も「パパ」と「ママ」に限った事ではないから、
おじいちゃんやおばあちゃん、
近所の叔父や叔母でも良い訳ですけど・・・・
一緒に住んでいないと、
やはり咄嗟の時の心の拠り所にはなり得ないわけで。
離婚した時は、
私が頑張る事でカバー出来ると信じていたし、
ブログもそのまま、
「時々パパまでやっています」
つまり、
パパにだってなるよって言っています。
それについては今でもそれだけの覚悟は持っていますが。
でも、
私は逆立ちをしたって私であり、
1つの人格は急に外見も中身も2つには出来ない。
両者の意見が必要な時には、
どうしたってダブルじゃなくてシングルなんですよね。
気合だけでは乗り切れない事もあるんだ。
その辺は悲しいし悔しいけれど、
事実として受け止めていかねばならぬ事なんだと思います。
そう思った時、
初めて思ったんです。
「パパがいなくてごめんね」
それは、
二人の親が子供を育てるというマジョリティーな世界に、
シングル世帯と言うマイノリティーでいると言う事への弱音だったのでした。